1: 2016/07/23(土) 05:55:38.13 _USER9
 「増井修」と聞いて懐かしさを覚える人はどれくらいいるだろうか? 増井氏は、1990年から7年間『ロッキング・オン』の
編集長を務め、熱のある文体で、ストーン・ローゼズやオアシス、ブラーなどの洋楽ロックを日本で盛り上げまくった仕掛人である。
97年に突然、ロッキング・オン社を辞め、あれから20年……。「伝説の人」となりつつある今、なんの前触れもなく単行本
『ロッキング・オン天国』を上梓した増井氏に話を聞いた。

――このたび、1990年から7年間のロッキング・オン編集長時代のエピソードを中心にまとめた単行本『ロッキング・オン天国』
(イースト・プレス)を刊行されましたが、あれから20年経った今、どういった経緯でこの本を出されたのでしょうか?

増井:こんな企画本、まっぴらごめんだと思っていました。だけども、本を書いてくれという要請がことのほか大きくてですね、
それは編集者のみならず、たまたま出くわした知り合いや、仕事関連の人からも、現在はすっかり偉くなってしまった往時の読者からも、
偶然に言われたりしまして。多分、彼らは僕の衰弱を慮って、いま書いてもらわないと自分達の青春の正しい追憶本がなくなるとでも
思ったんじゃないですか(笑)。でも、そうこうしているうちに、自分でもあの時がそれほど特別だったかな~という思いと同時に、
自分でちゃんとあの時代を振り返ってみることで一区切りつけておこうという気分になっていったという感じですかね。
ところが、この本ではそういった特別な時代、特別な自分、特別なロックなどというもんはなかったという趣旨がまずあって、
それだからこそ書く気にもなったし、逆にそうであれば盛って行って構わないとも思いました。

(中略)

――本書では、当時の実売部数や売上も詳密に公開されていて、その数字に驚きました。96年ごろが洋楽ロック雑誌の最盛期で
「毎月10万部、編集部6人で年間3億円稼いでいた」とあります。このヒットの原因はどんなところにあると思われますか。

増井:いろいろ理由は考えられます。考えられますが、いま言ったような構造下で、他誌が抜かれて行ってほぼ寡占状態になったからこそ
できたことですから、そこにはきっとエンドユーザーこそがものごとを決定する、ってな根拠もあったんじゃないでしょうか。
それまではどうしても一部の英語堪能な子女が自分の成果だと仕切っていましたし、ロックを本当に必要としていない世代の仕掛けは
撲滅していきました。だから、これ<プレ・インターネット時代>だったから売れたとは言っても、そこに近い認識があったからじゃ
ないんでしょうか。つまり記名で書くことが当たり前の責任を持っていながら、それが本当の記名性かどうかは危ういといったような立場に
自分はいたわけでして、その辺が良かったんだろうなと思います。だって、編集者ってそういうものではないですか。

(中略)

>>2-5あたりに続く

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